【特別寄稿】農業機械革新の歴史を語る -9- =農研機構革新工学センターシニアアドバイザー 鷹尾宏之進=
農業を営む上で欠かすことのできない農業機械。時代ごとに現れる様々な課題を解決し、農家の「頼れるパートナー」としてわが国農業の効率化・農産物の高品質化に貢献してきた。そこで、農業機械の開発・改良を進めてきた農研機構革新工学研究センターの鷹尾宏之進シニアアドバイザーにその歴史を解説頂く。本紙では回を分けこれを紹介する。
====================================================================
播種機・田植機の誕生 直播器は北海道で利用進む
米麦用播種についてご紹介する。写真の播種器は黒田式水稲直播器である。種子箱底部のシャッター操作により凹みにある一定量の種籾が樋を伝って定間隔に流れ落ちて播種するタイプで、通称「タコアシ」と呼び、北海道の黒田氏の開発とされる。写真を眺めるとタコ足とは言い得て妙である。本器は一度に8条2列分の播種が可能ということになる。(社)北海道農機工業会の「創立30周年記念北海道農業機械発達史」(昭和63年5月刊)によると、1905(明治38)~1910(明治43)年にかけて考案され、大正時代から昭和の戦前まで主に直播が盛んだった北海道で使われていたという。
1927(昭和2)年農事試験場事務功程には、水稲直播器(回転式1、蛸足式2、掬上式1)の比較試験結果について「いずれも1株に対する落下粒数が多かったため、改造して実地試験を行った。掬上式はなお改良の余地があったが、他の3器は1株粒数の偏差が比較的少なく、欠株なく、その功程は人手による播種に比し3~5倍だったことから、実用上適当」と結論している。なお、1934(昭和9)年には麦用播種機(人力用)の懸賞募集が行われており、応募224台、入賞5台(うち、2等1台、3等4台)だったが、入賞機種について播種方式の詳細は残念ながら不明である。播種機は器具から機械へ、人力式から畜力式、動力利用方式へと発展していく。
次に、水稲の移植機については終戦時点まで比較試験も懸賞募集も行われていなかった。1943(昭和18)年まで農事試験場事務功程に研究課題として水稲移植機を取り上げることもなかった。課題化されたのはその約15年後ということになる。即ち、農事試験場では戦後の機構改革で1947年(昭和22年)に種芸部から8研究室を有する農機具部を組織して分離独立させ、1950(昭和25)年に関東東山農業試験場に移行した後の1958(昭和33)年に至って移植用機具の研究が始まるが、これを担当したのは農機具第5研究室だった。この間の経緯等について農事試験場研究史(昭和56年刊)において担当室長の狩野秀男氏は次のように述べている。「当時、田植機が稲作体系に欠けていた最重要機種であり、体系確立のため取上げた。当初は慣行の根洗苗用田植機の実用化を目指したが、根洗苗の苗取機の実用化が極めて困難で、根洗苗用田植機の実用化も困難として土付苗用田植機に置き換えて研究した。また、当時最先端の根洗苗用田植機とされる熊岡式と菅原式の利用試験でも欠株が多く、実用化が難しいとして、土付苗用苗取機、土付苗用湛水田田植機、土付苗用乾田田植機を試作して改良を図っていくこととなる。これが現在普及している土付苗用田植機開発の端緒となった」と。
====================================================================
【鷹尾宏之進(たかお・ひろのしん)】

農学博士。1968年東京教育大学大学院農学研究科修士課程修了農業工学専攻。特殊法人農業機械化研究所入所、主任研究員、研究調整役、1995年農水省食品総合研究所食品工学部長、1997年生研機構基礎技術研究部長、2003年退職。2006年日本食品科学工学会専務理事、2018年農研機構農業技術革新工学研究センターシニアアドバイザーとして現在に至る。学会活動により農業機械学会功績賞、農業施設学会貢献賞を受賞、日本食品科学工学会終身会員。
====================================================================
播種機・田植機の誕生 直播器は北海道で利用進む
米麦用播種についてご紹介する。写真の播種器は黒田式水稲直播器である。種子箱底部のシャッター操作により凹みにある一定量の種籾が樋を伝って定間隔に流れ落ちて播種するタイプで、通称「タコアシ」と呼び、北海道の黒田氏の開発とされる。写真を眺めるとタコ足とは言い得て妙である。本器は一度に8条2列分の播種が可能ということになる。(社)北海道農機工業会の「創立30周年記念北海道農業機械発達史」(昭和63年5月刊)によると、1905(明治38)~1910(明治43)年にかけて考案され、大正時代から昭和の戦前まで主に直播が盛んだった北海道で使われていたという。
1927(昭和2)年農事試験場事務功程には、水稲直播器(回転式1、蛸足式2、掬上式1)の比較試験結果について「いずれも1株に対する落下粒数が多かったため、改造して実地試験を行った。掬上式はなお改良の余地があったが、他の3器は1株粒数の偏差が比較的少なく、欠株なく、その功程は人手による播種に比し3~5倍だったことから、実用上適当」と結論している。なお、1934(昭和9)年には麦用播種機(人力用)の懸賞募集が行われており、応募224台、入賞5台(うち、2等1台、3等4台)だったが、入賞機種について播種方式の詳細は残念ながら不明である。播種機は器具から機械へ、人力式から畜力式、動力利用方式へと発展していく。
次に、水稲の移植機については終戦時点まで比較試験も懸賞募集も行われていなかった。1943(昭和18)年まで農事試験場事務功程に研究課題として水稲移植機を取り上げることもなかった。課題化されたのはその約15年後ということになる。即ち、農事試験場では戦後の機構改革で1947年(昭和22年)に種芸部から8研究室を有する農機具部を組織して分離独立させ、1950(昭和25)年に関東東山農業試験場に移行した後の1958(昭和33)年に至って移植用機具の研究が始まるが、これを担当したのは農機具第5研究室だった。この間の経緯等について農事試験場研究史(昭和56年刊)において担当室長の狩野秀男氏は次のように述べている。「当時、田植機が稲作体系に欠けていた最重要機種であり、体系確立のため取上げた。当初は慣行の根洗苗用田植機の実用化を目指したが、根洗苗の苗取機の実用化が極めて困難で、根洗苗用田植機の実用化も困難として土付苗用田植機に置き換えて研究した。また、当時最先端の根洗苗用田植機とされる熊岡式と菅原式の利用試験でも欠株が多く、実用化が難しいとして、土付苗用苗取機、土付苗用湛水田田植機、土付苗用乾田田植機を試作して改良を図っていくこととなる。これが現在普及している土付苗用田植機開発の端緒となった」と。
====================================================================
【鷹尾宏之進(たかお・ひろのしん)】

農学博士。1968年東京教育大学大学院農学研究科修士課程修了農業工学専攻。特殊法人農業機械化研究所入所、主任研究員、研究調整役、1995年農水省食品総合研究所食品工学部長、1997年生研機構基礎技術研究部長、2003年退職。2006年日本食品科学工学会専務理事、2018年農研機構農業技術革新工学研究センターシニアアドバイザーとして現在に至る。学会活動により農業機械学会功績賞、農業施設学会貢献賞を受賞、日本食品科学工学会終身会員。